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筒美京平の印税・年収・総資産は?歴代売上枚数1位の作曲家の生い立ちも!

 
こんにちは、Tomoです(^^)

今日も「Tomo’s Walking Discovery」にお越しいただき、誠にありがとうございます!

日本を代表する作曲家・筒美京平さん。

日本の作曲家として歴代1位の売上記録を誇る伝説の作曲家ですが、

ここでは、筒美京平さんの気になる印税・年収・総資産や、このような偉大な作曲家に至った生い立ちについてもふれてみたいと思います。

筒美京平の歴代売上枚数は?

筒美京平の印税・年収・総資産は?歴代売上枚数1位の作曲家の生い立ちも!
引用元:産経新聞

ここでは1つ1つは書き上げませんが、筒美京平さんが残した名曲は数知れず。

ヒットチャートランクインは500曲以上もあり、1位獲得は39曲、TOP3以内が約100曲、TOP10入りした作品は200曲もあります。

これだけ多くにヒット曲を生み出しているといことで、筒美京平さんは1960年代から2010年代までの半世紀以上に渡って、TOP10にチャートインするなど、息が長いです。

日本の作曲家別で、レコード売上が1位になった年は、計10回。
(1971年~1973年、1975年~1976年、1981年~1983年、1985年、1987年)

TOP10としては、1968年から1989年まで22年連続でランクイン。

全盛期は1972年で約650万枚の売上を記録しています。

歴代の作曲家総売上ランキングをみてみると、この通りすごい顔ぶれの中で、堂々の1位ですから、筒美京平さんの偉大さが分かると思います。

■作曲家別 歴代売上ランキング

  1. 筒美京平 7560.2万枚
  2. 小室哲哉:7184.3万枚
  3. 織田哲郎:4179.3万枚
  4. 桑田佳祐:3893.7万枚
  5. 松本孝弘:3811.9万枚

この後も、6位は:松任谷由実、7位:桜井和寿、8位:飛鳥涼、9位:TAKURO、10位:つんくと続いています。

 
筒美京平さんは作曲家としての活躍が目立ちますが、実は編曲の方もスゴイ実績を残していて、歴代売上4位の記録を持っています。

■編曲家別 歴代売上ランキング

  1. 小室哲哉:6128.6万枚
  2. 船山基紀:4135.8万枚
  3. 荻田光雄:3973.3万枚
  4. 筒美京平:3747.1万枚
  5. 葉山たけし:3594.2万枚

筒美京平の印税・年収・総資産は?

上で説明した通り、長年にわたり数多くのヒット曲を生み出してきた筒美京平さんですけど、相当稼いだと思いますが、調べたんですけど、具体的な年収は公表されていないんですよね。

ですが、筒美京平さんの年収は明らかになっていないのですが、小室哲哉さんが1996年に年収が20億円に達して話題になりました。

この小室哲哉さんの20億を目安に筒美京平さんの年収を想定したいと思います!

小室哲哉の全盛期1996年年収を検証!

アルバムglobe

小室哲哉さんの場合、1996年当時はglobeのメンバーとして、アーティストでもあり、作詞、作曲、編曲まで一手に手掛けていましたので、これだけ多くの収入を得ていました。

筒美京平さんの場合は、このうちの作曲、編曲の部分のみとなりますので、だいた小室さんの年収の半分程度で、筒美京平さんの年収はざっくりと10億程度なのではないかと思います。

 
アーティストが契約するのは主に「音楽出版社」「レコード会社」「プロダクション」の3つですが、この
うち音楽出版社とは著作権契約を結び「著作権印税」、レコード会社とは録音契約を結び「アーティスト印税」を得ます。

■「著作権印税」の取り分
著作権印税は、テレビやラジオ、カラオケなどでその楽曲を使用するときに支払われる、著作権使用料です。

売上のうち6%が著作権印税として差し引かれ、残りの94%が音楽界者に譲渡。そしてそのうちの半分が作詞家や作曲家、編曲家に譲渡されるという仕組みになっています。

ということで、楽曲制作者(作詞家、作曲家、編曲家)の取り分は、著作権使用料の大体47%を山分けするという感じです。

■「アーティスト印税」の取り分
アーティスト印税、レコード会社との契約でCDが売れた枚数に応じてアーティストがもらえる印税のことで、アーティストの取り分はだいたい1~3%といわれています。

globeの1996年は、1stアルバム「globe」を発売し、売上400万枚近く、シングルでも「DEPARTURES」は200万枚以上、「Can’t Stop Fallin’ in Love」も100枚以上売り上げていますので、レコード会社は大変な

GLOBEは3人グループで3等分したとしても、相当のアーティスト印税を得ていたと思います。

小室哲哉さんの1996年の収入は、以下の1996年にglobeがリリースしたもの以外にも、他のアーティストに提供した楽曲からも収入を得ていたと思いますが、1996年発売した主な作品に絞って、年収の内訳をみていき、筒美さんの年収の目安を立てたいと思います。

■1996年にglobeがリリースした主な作品と当時の売り上げ枚数

  • アルバム「globe」400万枚
  • シングル「Feel Like dance」95万枚
  • シングル「Joy to the love (globe)」81万枚
  • シングル「SWEET PAIN」90万枚
  • シングル「DEPARTURES」229万枚
  • シングル「FREEDOM」48万枚
  • シングル「Can’t Stop Fallin’ in Love」100万枚

1996年のglobeのアルバムの売上は、1枚3000円として、400万枚×3000円=120億円
1996年のglobeのシングルの売上は、1枚1000円として、643万枚×1000円=64億円
であわせて、184億円。

このうちglobeがアーティスト印税で得る収入が3%として5.5億。
小室さんの収入を3等分したら、約2億円という計算になります。

2億円という数字も相当大きな数字だとは思いますが、20億円からするとたったの10分の1。

他にもglobeとして、1996年には7公演のライブも行っていますが、こちらもせいぜい1億円くらいでしょう。

そう考えると、小室哲哉さんが1996年に著作権印税で得た収入は、15億~17億程度と想定することが出来ます。

小室哲哉の1996年年収から筒美京平の年収を算出!

globeの1996年のシングルは約650万枚の売上、筒美さんの全盛期の1972年も約650万枚でほぼ一緒。

筒美京平さんは作詞はしていませんが、作曲と編曲をしていますので、小室さんの著作権印税から作詞分を差し引いた10億円程度が、筒美さんの全盛期の年収ではないかと推測できるわけです。

 
続いて、筒美京平さんの総資産についてですが、先程ご紹介した通り、とても息が長くて、お亡くなりになった今でも、著作権印税で1億円ぐらい稼いでいるでは?といわれています。

日本の作曲家別で、レコード売上が1位になった年は計10回で、TOP10は22年連続でランクインしているので、

仮にざっくりと、1位になった年は5億、TOP10入りした年は2億と、少なく見積もっても、22年で74億!

筒美京平さんの生涯年収はおそらく100億を超えているのではないかと思います!

筒美京平の生い立ち・音楽環境・人脈がすごい!

筒美京平の印税・年収・総資産は?歴代売上枚数1位の作曲家の生い立ちも!
引用元:BLOGOS

筒美京平さんは、1940年5月28日、東京生まれ。

本名は渡辺栄吉(わたなべ えいきち)さんといいます。

弟さんは、森山良子、野口五郎、浜田麻里、C-C-B、今井美樹、KAN、山崎まさよし、コブクロといった方を手掛けた名音楽プロデューサーの渡辺忠孝さんです。

 
筒美京平さんがピアノを習い始めたのは、東京都港区にある霊南坂幼稚園の頃から。

その後、小学校から大学まで青山学院に通い卒業していますので、生粋の青山ボーイですね(^^)

この学歴からして、相当のお金持ちのお家で生まれ育ったのではないでしょうか?

青山学院はクリスチャンの学校ということで、週に1回生徒礼拝の時に伴奏ピアノを弾いたりいたそうです。

文化祭の時に「慕情」などの映画音楽をメドレーで弾いたりするなど、人前でピアノを披露する機会が多く、ピアノは相当の腕前で、芸大のピアノ科に入りたいと思っていたとか。

青学の中等部時代の同期には東京交響楽団で指揮者をやっている秋山和慶さんもいて、音楽をするにはとてもよい環境だったのだと思います。

大学時代はジャズの同好会に入り、ジャズ喫茶に通い、黒人のジャズよりも、デイブ・ブルーベックなどのクール・ジャズの方を好んでいたそうです。

アルバイトで新橋や銀座のグランドキャバレーでピアノを弾いてこともあったそうですよ(^^)

 
大学卒業後は、音楽関係の仕事を希望し、1963年に日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)に入社。

作曲や編曲を始めたのは、のちのち一緒にコンビを組み数々の名曲を残した、青学の先輩で作詞家の橋本淳さんから「やったらどう?」と勧められたことがきっかけ。

橋本さんから薦められた当時、あの「ドラゴンクエスト」シリーズの音楽を手掛けたすぎやまこういちさんのマネージャー兼作詞家をやっていたことから、すぎやまこういちさんに作曲を教わることなります。

すぎやまさんとの仕事はスタジオでぶっつけ本番で、シングルのB面を「ちょっと、やってみるか」って言われて、譜面を作ってすぐにスタジオで録音するという離れ業をやっていたそうです。

音楽の天才の集まりですから…本当にすごい世界ですよね!(^^)

筒美京平さんの処女作曲作品は、橋本淳さんとコンビを組み作成した1966年「黄色いレモン」。

藤浩一さん、望月浩さんが歌っています。

当時の筒美さんは、日本グラモフォンの社員で、他社の東芝音楽工業の仕事をするのは問題があったため、筒美京平さんの本名「渡辺栄吉」ではなく「作曲:すぎやまこういち」として発売されています。

この、すぎやまこうちさんの作曲家名義貸与を行うという恩師の温情が、筒美さんが世に出る起爆剤となりました。

 
その後も、作詞家橋本淳氏とのコンビを組み、1967年)ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」がヒッ
トし、グラモフォンを退社。

その後は、皆が知っての通りですが、ヒット曲を飛ばし続け、1969年には、「ブルー・ライト・ヨコハマ」で日本レコード大賞作曲賞を受賞、その後計5回の作曲賞を受賞。

レコード大賞は、1971年に尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」、79年にジュディ・オングの「魅せられて」の2回受賞。

2003年には、紫綬褒章を受章し、日本を代表する伝説の作曲家となっています。

まとめ

いかがでしたか?

筒美京平さんの印税や年収・総資産については、全く公表されていなかったのですが、小室哲哉さんの全盛期の年収から、筒美さんの全盛期の年収は10億程度ではないかというのが僕の見立てです。

生涯年収でいうと100億以上はいっていると思われ、もう凡人からすると天文学的な数値ですよね!

そんな筒美京平さんの生い立ちから作曲家になるまでのルーツも調べてみましたが、幼稚園の頃からピアノを習っていて、幼い頃から音楽に慣れ親しみ、そして会社に就職してからも、橋本淳さんやすぎやまこうちさんといった人脈に恵まれていたということも、筒美京平さんがここまで大成した要因なのでしょう。

やはり日頃の努力・実力と、運も味方に付けないといけないと思いましたが、人脈もとても生きていく上でとても大切であることを、再認識させて頂きました(^^)

それでは、最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました!